第八章 ロワールのサーカス


<scene 17 ボルドー遠征>

 折角のフランスだから、ボルドーへ行って赤ワインでも飲もうと思い、パリから南下を開始した。

 列車のダイヤが乱れているのか、駅では到着待ちが結構あった。
 路線を変えるための乗り継ぎ駅では、奇妙なことに、向こうに列車が見えていたにもかかわらず、停車したままホームに入って来なかった。
 ごった返すほど大勢の人間が、ホームに立って列車の到着を待っていた。
 近くにいたメガネの少年が、怪訝そうな顔で止まったままの列車を眺めていた。
 アラブ人風の男が、ニヤニヤ笑いながら私の前にサンダル履きの足を突き出す。確かに、私の雪駄と似た物だったが、そんなことに興味はなかったので、社交辞令程度の微笑を返しておいた。
 イベントリーな、祝祭的雰囲気さえ漂っていた。
 「彼はバガボンドね」
 ベンチに座っていた中年のシャレた女性が、アゴを手のひらにのせたまま、英語で暇つぶしの感想を述べてくれた。金髪に染めた長いカーリーヘアが印象的だった。
 大きなズタ袋を背負った刺し子袢纏のフーテンは、そんな風に見えたのかもしれない。
 (バガボンド? ランボーみたいじゃないか。そんなシャレた者に見えたのなら光栄だ)
 そのうちに、業務を再開する意欲でもできたのか、列車はゆっくりとホームに入ってきた。

<scene 18 ロワール川>

 名も知らない町で列車を降りた。地図を見ていたら、列車がロワール川周辺を走っているように見えたからだ。
 欧州は大抵町の外れに駅があるので、どんどん歩かねばならない。
 その町は小さく、宿は一軒しか見つからなかった。
 入ってみると、割と格式の高そうな内装だった。長い廊下の壁は赤いビロード張りで奥まで続き、彫のある重厚な白いドアが整然と並ぶ。
 フロントで泊まれるかどうか訊くと、丁度どこからか電話が掛かって来た。これも欧州旅行で続いた情けないシンクロニシティのひとつだった。
 オーソン・ウェルズのような貫禄の中年男は私をチラチラ見ながら長い間話していたが、仏語なので内容は窺えなかった。
 その後キッパリと断られた。
 私は足元の雪駄に目を落とした。これがまずかったのかもしれないと思った。
 いや、ボロボロの刺し子半纏や頭陀袋のようなバック、もっと色々と一から十まで、いや私の存在そのものが、ホテルの気に入らなかったのかもしれない。

 他の宿を探してさ迷い歩いていると、ロワール川に出た。
 記憶では、レオナルド・ダビンチはフランスで客死したはずだった。確かに、ここらあたりなら死んでもよさそうだと思えた。
 もう魔境に疲れ果てていた。
 歩いていると、フェルメールが描いた少女が浮いていそうな深緑色の淵があった。

 (もうここらでバガボンドも終わりにするかな)

 空を見上げて、澄んだ青みの差す明るさで思った。
 いつも、なんだかブルーだった。
 もういいだろう、進軍なら。
 刀も折れ矢も尽きた。
 もう、降参する。

 そんなことを思いつつ歩いていくと、川の土手で三十歳くらいの女性に声を掛けられた。黒髪はショートカット、黒いワンピース。アニメの「魔女の宅急便」にでも出てきそうな人材だった。

 「今夜サーカスがあるんだけど、チケット買わない?」

 私は内心とても見たかったが、気分が沈んでいたので断った。サーカスが印象的に使われているフェリーニの映画は好きだった。
 道の下には長いスロープがあった。川の水量は、今は少ない。この広く傾斜した土手には似つかわしくない細い川を眺めた。
 辺りをふらふらしていたので、もう一度その女性と行き会った。サーカス団員だろうか。こんな風に切符を売り歩くのかもしれない。

 「ねえあなた、サーカスに来ない? 楽しいよ?」

 断った。

 (サーカスはおれだ)

 適当な河畔で寝転がって、ロワールを見ながらワインを飲んだ。
 そこら辺の草むらにミッキーマウスをレンダリングして、とんぼ返りさせて遊んだ。オマケにミニーを付けてダンスもさせてやった。
 イリュージョンの中でなら、いつもサーカスだった。
 それに、ドパミン漬けの脳みそが作り出す幻覚が、サービス満点でサーカス・オブ・ライフに散らばめられる。

 買って持っていたのは、やけにうまい赤ワインだった。
 モンパルナスの酒店で、フランクな男性店員から「好みは? スパイシー? それともフルーティ?」と訊かれた。私は困ってフルボディと答えたが、店員も困って肩をすくめた。ワインのコクを問題にするのは日本人だけなのかもしれない。

 くさぐさに物思いして、日が暮れていった。
 酔って川風に当たっていれば死ぬだろうと気楽に考えた。
 人はひょんなことで死ぬものだ。
 時に、どこからかサーカスの司会の声が聞こえ始めた。そして、観客のどよめき。こちらは孤独のバーゲンセールだ。

 ユングは共時性(シンクロニシティ)が起こる時、メンタルの低下を伴うと言った。こんな感情の沈み込みもそうだろう。それで、無意識が意識に流れ込む勾配ができる。
 そして、共時性が起動するのは、無意識が強化されるからであり、それは「他の可能な意識内容」のエネルギーの撤収によってなされると述べた。
 これは自らの体験を書いているものだろう。ユングの著作は時に、科学で偽装した長い自己告白に見えることがある。
 そんな時には、いつでも傍に居てくれる頭脳明晰な友人のように想えた。
 「他の可能な意識内容」は、知覚可能な心理現象も指すだろう。
 そのエネルギーの撤収がもたらす症状は、私の馴染みであるホワイトノイズや飛蚊症などの耳鳴り、光が眩し過ぎるなどの視覚過敏もそうなのかもしれない。
 やがては再調律されるはずだが、完全には元に戻らないかもしれない。

 酔いが醒めたのか、目が覚めた。
 眠ってしまっていた。
 サーカスは終わっていた。
 (寒いな)
 駅に向かって移動を開始した。
 すると、わりとすぐ近くに、サーカスのテントが立っていた。
 これならうるさいわけだ。
 闇に浮かぶ厚い布地の白色が小城のように見え、異様だった。
 サーカスの脇を通り過ぎ、薄暗い真っすぐな欧州の田舎道を歩いた。

 (夜風に当たって死ぬんじゃなかったの?)ネズミが言った。

 無視した。

 (善人早死に、悪人長生き、やること多かろな)と追い討ちをくれた。

 金子みすゞの悪態バージョンなのかおまえは。

 途中、灯が見えた。パブのようだった。
 サーカス流れなのか、大いに盛り上がっていた。
 窓が蒸気で曇っており中が見えない。
 入れば閉店までは暖がとれると思ったが、しどけなく諦めた。
 心の寒さも度を過ぎれば、温かさに耐えられなくなってしまう。

 やっと駅に着き、中に入り、ホームの屋根の下に座った。
 寒くて寝ることもできず、しきりにタバコを吸った。
 欧州の駅には改札がない。業務が終われば駅舎を閉めて無人化するのだが、珍しくその駅舎には明かりがついており、煙突から白い煙を吐き出しているのが見えた。
 (あの中は、暖かいんだろうな)
 時おり、貨物列車が猛スピードで来るのを見た。無表情な異世界がどこからか来て、轟音とともに走り去るのを感じた。

 ─── 二番ホームを快速列車が通過します 意味のわからない方は下がって
 記憶だが、中沢系の短歌だ。
 心の闇の中では、体験するすべての出来事がそのように過ぎた。

 雨が降ってきた。
 足先から冷えてゆく。
 駅員が出てきて、私を呼ぶ声が聞こえた。
 親切心のように思えたが、私の位置からは顔や姿が見えなかった。灰皿のない駅でタバコを吸っていたから、怒っていないとも限らない。
 無視していると、その声はだんだん怒鳴りだした。
 突然、私のメガネが顔からずれ落ちた。「なんだ?」と思い手に持って調べてみると、留め金部分が有り得ない角度で曲がっていた。
 (やられた。ひどいことするな)
 チョー能力か?
 お陰で私は旅の終わりまで、股が開いたようになってしまった眼鏡を騙し騙し使うはめになった。

 こうしたサイキックと思われる現象は、欧州旅行で何度かあった。できれば全て幻覚として処理したいのだが、それで説明できるとは思えないケースもあった。
 「本当なんだよ」と真顔で言って、キツネにつままれたような話をする者がいても、どこかに面白みがあるなら許されるだろう。

 ところで、ソーサラー(呪術師 魔法使い)の語源には、諸説ある。
 単純にソース(soruce; 情報の源)を意味するのではないかとする説もある。
 ソーサラーを水源、あるいは源流に遡ろうとする者と捉えるなら、私はその名称を好む。
 今、ロワールをネットで調べたら、満々とした水量の画像ばかりが出てきた。私が出会ったのは、どこかの支流だったかもしれない。

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