第七章 シンクロニシティがB級ホラー
<scene 15 パリの洋服店>
フラリと入った洋服屋で、青地に発泡剤の文字が沢山入ったTシャツを見ていた。袖が斜めにカットされていて、他に同じ物もなかったから、手作りのオリジナルだっただろう。
(これは、いいな・・・ 他に、もっといい物はあるだろうか)
壁に掛けられた他の服を見回すと、店主の独特なセンスが感じられた。
時に、背の高い白人男性が入って来て、「オメデトウ! やったじゃない」等と英語で話し始めた。なぜ英語だったのかは知らないが、大体の話の内容から、なにかのコンテストに入賞したようだった。30前くらいの女店主も嬉しそうに受け答えしていた。
(またか)
私が店屋に入るといつも、最初誰もいないのに、馴染みの客が来て嬉しそうに話し始めるのだった。
シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)だ。
こんなことが5回10回と再演されると、人生が出来の悪いB級映画になってしまったように感じる。
だが、そんな事とは関係なしに、結局私は青いTシャツを買った。
☆
ユングは「主観的な意味」が、時や空間を超えると述べた。
彼の著作は難解だが、それがシンクロニシティ(共時性)という現象の最も端的な説明だ。
前出のケースでの私のミーニングは「自分が店に入るとなじみ客がくる」または「店が繁盛する」といったものだったが、確かに日本やフランスという地域に関わりなく、半年以上も続いた。
シンクロニシティは、時によって締め付けがきつくなる時と緩む時があるので、私はシンクロニシティ・バインドと呼んでいる。締め付けと表現するのは、いつも嫌な気分にさせられるからだ。
「原因が知的な言葉では考えることすらできない」とユングはいう。
シンクロニシティは、原理の説明は不能、ゆえに客観的証明は不可能だとされる。
よって、こう言うしかないのだが、「それあるよね」という同意に頼る他ない。
人によっては全く経験されないのかもしれないが、われわれのようなトライブには、それが嬉しくもない日常だ。
更に、ユングはスエデンボルグの有名な火災予見を例に出しているから、テレパシーも現象として含む。
要は、意味が「通用」していればよいのらしい。
それは、「時空を超える」と表現するより、時空が折り畳まれたまま展開しないような、意味の塊の事だと説明してもいいのかもしれない。だからこそ、どこにでも出現し得るわけだ。幻のようにシンクロして。
☆
関連する事に共進化がある。
有名なケースだが、ハチドリとある種のランは共進化の関係にある。
植物は立って歩けないので、自らの生殖を媒介者に頼らざるを得ない。
同じ媒介者に頼んだ方が確実性が高いことから、ランの花ツボはだんだんと深くなり、それに合わせる形でハチドリの嘴も長くなっていったというストーリーだ。
このことから、脳のない植物にも(非常にゆったりとした)考えのようなものがあり、こうなった方が得だという形に変わろとする意志があることが窺える。
意識などなくても、無意識が考えることがある。そして、この場合には、生命種を超えて「意味」が通じ合っている。
これはユングのいうシジギー(たえば男女ペアの結合イメージ)を想起させる。さらに、集合的無意識と関係づけるとしたら、シンクロニシティに近いところまでいくのではないか。
それにしても、考えるとは一体どういうことなのだろう。
ユングはミツバチの複雑な集団行動を例に出し、彼らには脳がないが、何か考えを持っているように見えると書いている。
もし、それが本能行動であっても、DNAに書き込まれた命令であったとしても、広い意味では「考え」だろう。
さて、無意識というと、抑圧された記憶とか、シャツのボタンを嵌めるような自動化もあるが、ユングはもうひとつ言語によらない思考を指差している。ミツバチが神経細胞で考えるところに、無意識を見ているのだ。
むしろ私は、それを純粋思考と呼びたい。
脳生理学者ベンジャミン・リベットの有名な実験で明らかなように、無意識の思考は意識に先立つ。
リベットは被験者の脳を電極測定し、たとえば手首を曲げるというような意思的行動について、意思決定のタイミングと脳の電位変化の時刻を比較する実験を行った。
結果は、脳波の動きの方が、被験者が意識的決定をしたと感じた時刻より、時間的に(0.35秒〜0.55秒)早かった。
このことから、われわれが自己と考えている言語意識は、喩えて言えばコンピュータの演算結果をプリント・アウトしたものに過ぎないと推定されることとなった。
とはいえ、人間は言語意識によってロジックを手に入れたはずだ。
純粋思考が意識の場にダウン・ロードされようとするあのヒラメキの瞬間を、文章を書く者なら経験したことがあるだろう。
けれども、その前に、泥のようなロジックを組んでおかなければならない。純粋思考と言語意識は、いわばピンポンのように球を打ち合いながら、他の生命種にはない論理性を手に入れた。
それは非言語的思考といっても伝わるが、それが言語思考に先立つものである以上、対立概念とは言い難く、純粋というべきだろう。
コンピューターにたとえれば、マシン語が先立ち、人間にもわかりやすい汎用言語が作られたように。
☆
いささか、話がシンクロニシティから逸れた。ところで、自分は雨女とか晴れ男とか自称する人が時々いる。これもある種の共時性だ。
私の場合は、12月に(台風でも来ればいいのに)と何の気なしに思ったところ、本当に遅い台風が来てしまったことから始まった。
次に、(雪でも降ればいいのに)と思ったところ、これも叶った。
私の住む地方は温暖で、雪など年に一、二回も降らないので、奇跡的なことに思えた。
(もしかしたら、おれは天気が操れるのではないか?)
そう疑念してからは自在だった。夏の暑い日には雨を降らせるし、愛犬が死んで埋葬した時には、雪の絨毯を掛けてやったりもした。
アメリカン・インディアンのメディスンマン(呪術師)であるローリング・サンダーは、天候を操れたことで知られる。
彼は、カメ虫を棒で刺激し、そのイライラを原動力にした。そこには、彼らなりの伝統的な原理(理屈)が存在しているのだろう。
彼の息子が、雨乞いの修行をしていた時の言葉を紹介しよう。
「ここ数日にはできるようになると思う。自分の雲を集めなければならないんだ。雨を降らせるやり方としては、それが一番やさしいやり方だとされている」
呪術師として誰かに教えねばならないとき、それは術でなければならないだろう。
だが私には術などなく、心で思うだけだ。
しかして、その場合の原理は何なのか?
色々考えて、シンクロニシティだと思い当たった。そうだとしたら、ユングはそれについて何と言っているのか。前述どおりだ。「考えることすらできない」と天才が言っているのだ。私のような凡人には、お手上げである。
けれども、世の中には考えるだけムダなことがあるということは分かった。
大切なことは、それが出来るということ、そしてそのような存在として生きていくこと、なのである。
☆
<scene 16 パリのパブ>
話をシンクロニシティ・バインドに戻そう。
エッフェル塔を目指して歩いていたとき、パブに入ったことがあった。
そんなに早い時間でもなかったが、客は私一人だった。
大体私は混んでいる店などには入りたくなくて、外からわかると避けてしまう。内気な性格が災いして、オーダーが出せないからだ。一人なら気兼ねはない。
ジントニックを頼んだ。
暇を持て余していた若くてハンサムなバーテンダーが、私の左手首に愛想よくミサンガを結んでくれた。刺繍が、Be Cool と入っていた。
それを旅行中ずっと付けていたが、意味深長だった。
客がもう一人入ったタイミングで、北欧系の顔立ちの彼は、弾けるような笑顔を見せた。なじみ客だろう。一言三言会話して、示し合わせたかのように、ハウスもののCDをかけた。
商業的な香りがせず、彼のオリジナル・プロダクトかと感じた。
(そうか、この人はミュージシャン志望なのかもしれない)
水商売の人には、結構そんな人が多い。
店にはどんどん客が入って来て、ジン・トニック二杯で満員になった。私は店を出ることにした。
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【引用】 「自然現象と心の構造」C.G.ユング W.パウリ 河合隼雄・村上陽一郎 訳
【用語解説】
シンクロニシティは共時性のこと。ただしユングは、このコンセプトに様々な項目を含めている。そのひとつ、意味のある偶然の一致は、英語では meaningful coincidence なので、直訳的になら「意味に満ちた同時発生」と受け取れる。
【ベンジャミン・リベット】
脳学あるいは意識の問題を考える上で、リベットの研究を無視して語ることはできないと評された人。本文中の実験は、サンフランシスコのマウントザイオン病院で、1958年より開始された。
【引用】 「ローリング・サンダー」ダグ・ボイド著 北山耕平・谷山大樹 訳
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