第六章 モンパルナス回遊



<scene 12 パリでミシェル・ネイ将軍に出会う>



 安宿を転々として、パリでは南にあたるモンパルナス付近に二週間ほどいた。
 通りがかりに、好きだったミシェル・ネイのブロンズ像を突然見つけて、息を飲んだものだった。この場で銃殺されたらしい。

 ネイは、今はドイツ領であるザールルイの産だが、当時はフランス領だった。ドーテの「最後の授業」で知られるアルザス・ロレーヌ地方の出身である。ランボーは近場のアルデンヌだが、親近感を抱いたとしても不思議はない。歴史的にフランス領となったりドイツ領となったりを繰り返したので、彼らには国家への帰属意識はあまりなく、むしろ郷土的な独立心があるとされる。

 ランボーの詩集「地獄の季節」のなかの「悪い血」は、己の前世を長々と探訪する内容だが、こんな詩句がある。
 ─── さらに時代がくだって、傭われ騎兵の身の私は、ドイツの夜天のもとで、野営をしたかも知れぬ。

 ナポレオンは砲術攻撃を得意としたが、それに伴う歩兵の前進、そして隠し玉のような騎兵突撃を組み合わせた。
 ミシェル・ネイは、騎兵隊長として、戦局を変えるとまで評された軍人だ。そして「あの男はライオンなのか」とナポレオンを感嘆せしめたという。
 ナポレオンが最も信頼した腹心の一人であったにも関わらず、個人の命運と国の帰趨を同じくしないために、他の元帥とともに皇帝退位を進言した。
 ところが、ナポレオン凱旋では再び翼下に参上し、国家反逆のかどで軍法会議に処せられ刑死した。
 「私は百度フランスのために戦ったが、一度としてフランスに反逆したことはない」
 モスクワ公でありキリスト勲章の佩用者であるネイは、悠然と兵士たちに銃殺刑のやり方を教えた後、そう言ったとされる。

 面白いことにランボーは、「悪い血」でこんな場面を書いている。引用後半は、軍法会議での証言が想定されているだろう。

 ─── 激昂した群衆の前で、私には銃殺執行部隊と相対している自分の姿が見えた。彼らには理解しようのない不幸に涙しつつ、許しを与えている! ── ジャンヌ・ダルクなのか!── 「プリースト、プロフェッサー、マスター、君たちは間違っているしこんなのは不公正だ。私はかつてこの国の一員だったことなどない・・・決してキリスト教徒だったことはない・・・刑罰を受けても歌を歌っている種族の出なのだ・・・法律などしらない・・・モラルなどない、野蛮な人間なのだよ。君たちは間違っている・・・」

 騎兵で名を馳せたにも関わらず、モンパルナスのネイ像は騎乗していない。作者リュードは、モスクワ進軍でラッパ手にまで突撃を命じた炎の魂を想像し、そこに立たせた。
 夜に、盗人のように、何度も見に行った。
 手前勝手な趣味で、チャイコフスキーの交響曲第六番「パセティーク(希語ではパトス・情熱)」を、グィード・カンテッリが演奏しているイリュージョンを伴奏に張り付けた。
 カンテッリはイタリアの指揮者で、第二次世界大戦でレジスタンス運動をし、また収容所を脱走して偽名で演奏活動をおこなった。私は昔買ったアルバムの顔写真一枚のイメージを元に、脳内ビデオ演奏を再現することができた。走る第三楽章の指揮棒に、オーケストラは戸惑いながらも巻き込まれていく・・・。

 カンテッリはバーンスタインとともに将来を嘱望された天才だったが、飛行機事故で若くして亡くなった。天才や勇者は、あまりいい死に方をしないものらしい。神界から火を盗んだプロメテウスのエピソードにも似て。




<scene 13 大ルーブル>

 シャンゼリゼやルーブル宮殿も散歩コースだった。
 モンパルナスから北上を開始し、セーヌ川を渡って行く。

 シャンゼリゼ公園では、屋台でホットドッグやソフトクリームを買った。
 芝生に座り食べていると、カラスなどはよく心得ていて、付近に近寄ってきた。手持ちのパンを、少しちぎって後ろに放り投げてやると、即座に背後で羽根音がするのが聴こえた。
 慣れてくると、すぐ近くまで来て、丸い目で私を覗き込むようになる。ねだるのだ。
 鳥は360度の視野を持っているが、人を見る時には片側の顔を正対させる。理由はわからないが、概して左目で見られることが多い気がする。あのひとたちにも利き目があるからだ。飛行中の旋回は、利き目の側へ多くするという。
 海から上がってきたはずの生命種であるのに、望めば空さえ飛べる。どうしてこれ程までに、神は我ら生命の望みを叶えたまうのか。
 それがこの地上のことならば、神をなくした人類は、その代わりに一体なにを望んだのだったろう。

 ルーブルといっても、美術館には一度しか入らなかった。
 モナ・リザの前では人だかりが出来ており、東洋人がピースサインで、フラッシュをバシャバシャ焚いて記念撮影していた。それで、ここにはレプリカしか置いてないのだとわかった。私は観光名所はあまり好きではない。

 ─── なにが面白いのだ ───  私は毒づきながら、幻影の贋物マークをレプリカにスタンプしながら回った。たまにレプリカでないと感じられるものがあって、それは除外した。

 ルーブル宮殿の横にある公園で、よく腰を下ろして休んだものだった。街なかでは、座って休む場が中々ないのだ。
 ある日のこと、見上げると太陽の周りに大きな日輪があった。ハロー現象だ。圧倒された。これほど大規模なものは見たことがなかった。

 (大ルーブルだな。こっちの方がいいや)

 抜けるような気分になって、鳥と遊ぶことにした。デイバッグからブレッドを取り出して、少しづつ丸めて指で弾いてやった。
 すぐに、近くにいるスズメの足元へ、正確に飛ばせるようになった。
 最初は二、三羽だったが、評判を呼んだのかハトも食事会に参加してきて、大勢になった。
 強いひとや弱いひと、怪我をして足がなかったり、また病気の者もいたが、公平を期した。
 慣れてくると、かれらは嘴で地面を突いて催促するようになった。(こっち、こっち。こっちに飛ばして!)
 (いやしいドブめ、今度はおまえだ。ほれっ。あー、はしっこいスズメに取られちゃったね。もう一度いくぞ・・・)
 体が大きいからといって、ハトがスズメより強いということはなかった。遊びに夢中になった。

 「彼は鳥と話ができるのか?」

 という声が聞こえたので見ると、周りに大きな人垣の円ができていた。
 ローラーブレイドの警官が二人混じっていた。パリには古風な騎馬警官もいたが、ローラーブレイドも採用されていた。
 気恥ずかしくて、知らぬふりを決め込むことにした。

 ── おれのエサは高いぞ。ヒトカケラ百万円だ。さもなくば、おれに幸運を運んで来いよ。いいか、わかったな ──

 などと、心の中で鳥に話しかけながら・・・。
 そのひとたちは、ほとんど真面目に聞いていないように見えた。だが、この遊びは他の多くの場所でもやっていたので、欧州の鳥たちが私に巨額の負債を抱えていることは確かだ。
 (そんな律儀な心持ちで暮らしていたんじゃあ、鳥稼業は務まりませんぜ)と反論されるかもしれないが。

 都会のハト・ライフも楽ではないようで、噴水の縁で溺死していたり、車に轢かれて真っ赤なミンチになっていたひともあった。死に方に差はあっても、誰にでも死が訪れるという点で、生命は平等だ。
 (平和の使者轢死か。この世界に、平和が訪れるなどということはあるまい)
 それでもどうでも、みんな生きていく。

<scene 14 モンパルナス駅前広場>

 ガレ(駅)前の円形の広場もお気に入りだった。
 信号待ちで、前の女性が何か落としたのか、しゃがんで片手を地面に付けた。20代の二人組だった。コンタクトレンズかなにかを一緒に探すはめになるのだろうか。そう思って眺めていると、彼女の股上の浅いジーンズから、白と青の縞パンが遠慮なしに見えた。
 ── うおーい! ──
 レース付のシルクではなくて、スーパーで一山いくらの綿パンがかえってセクシーだった。でかいケツの女は、私をふり返り見て、連れとニヤニヤ笑い合った。
 ── ワザとなのか? ──
 落し物が本当にあったのかどうか、彼女は何も拾いはしなかった。パリジェンヌは、割と際どいジョークが好きなのかもしれない。
 今思えば、にわかに駅前常連になった私をあちらは見知っていて、からかってみたくなったのかもしれない。
 それだけだった。話しかけられたりはしなかった。あるいは私が気の効いたジョークを言うべき場面だったのかもしれない。

 散歩途中では、こんなこともあった。
 「ねえ、あなた英語は話せる?」
 「いや、話せませんよ、マダム」
 なにかのパンフレットを持った四十絡みの女性に、私は英語で答えた。彼女がにっこり微笑んだので、私も返した。彼女は笑いながら口をもごもごさせて私を指差していたが、言いたいことはわかった。しかし英語が話せるというほど堪能なわけではないのだ。
 晴れた日のストリートは、さながら花絵巻のようだった。

 歩道の脇にホットドッグなどを売る屋台があって、シニード・オコナーそっくりのスキンヘッド美人が切り盛りしていた。まだ寒いのにぴちぴちのTシャツで、板のような胸が目立った。
 (もしかして、ゲイ?)
 私はいつも、彼女を見て色々想像するのが好きだった。
 まず、女か男か。女なら、こんな若い美人がなぜ屋台をやっているのか。それにはどんなバック・ストーリーがあったのか。
 かなりジロジロ見たはずだが、フライ返しを鉄板にチャキチャキ当てながら、たまに呆れた表情を浮かべるくらいで、さほど迷惑そうな素振りはされなかった。いや、迷惑だっただろうが、白人特有の拒絶する視線は送られなかった。

 近くにはホットドッグをプレスする人が机で店を出していたが、ホットドッグ自体は売っていないようだった。
 その場に店主が居ないことも多かった。仕入れに行っているのだろうか。
 (どういう商売?)
 いつも不思議な気持ちで観察したものだった。プレスの賃料を取るのだろうか。
 せっかくうまそうなホットドッグが、彼の仕事によってぺちゃんこの板みたいになっているのも見た。
 (ま、手っ取り早く喰うにはいいんだろうな。パリでは)

 「おい、タバコの作り方教えろよ」
 駅の二階は全面ガラス張りになっており、外を眺めていると、突然、三十過ぎの男が話しかけてきた。50グラムの手巻きタバコ・パックを手にしていた。いい年をして紙巻きタバコの作り方がわからないのだろうか。
 「は?」
 「いいから教えろ」
 彼は怒ったように言った。
 デカイ態度にはムッとしたが、逆にシャイなんだろうと思い、一からやって見せた。
 顔が20区で出会った青年とそっくりだと感じたが、例によって彼は、気安くものを尋ねるような雰囲気を持っていなかった。
 後で話したくなって振り返ると、あたりから消えていた。
 あの男はどこからやって来て、その後どう生きただろう、この街で。想像するだに煙草のけむりのような物語だ。

 犬の散歩コースにしている人も多かった。そんな人たちが顔馴染みと挨拶しているのを見るのが好きだった。ひとしきり、嬉しそうに世間話をしていく。
 モンパルナスのそんな暮らしを、懐かしく見ていた。



第七章へ進む →→→