第五章 パリ二十区のカラテ・マスター



scene 10 パリ20区、ブルガリアの青年

 パリではメトロを使ってどこへでも行った。
 その日はパリの東端である20区をさ迷った。ミシュランの地図を見ても、どこを歩いているのかさえわからなくなっていた。丁度、市内と郊外の境目あたりで、裏通りや住宅街が混在していた。墓場も見た。が、メトロの駅は見つからなかった。バスは、まだ乗り方を知らなかった。

 くすんだ灰色の街並み、疲れ果ててバス停付近で座っていると、ふらりと短髪の青年が現れた。
 何かイラついていて、決してフレンドリーな雰囲気ではなかったが、かといって歩き去りもしなかった。
 バスが来ても、乗っていこうという気配はなかった。
 気まずかったので、手巻きタバコを勧めた。
 ひとつには、他人がどうやって吸うか見てみたかった。格好のいいやり方なら真似したい。
 青年は、紙パックから刻みタバコを山のようにつまみ出すと、非常に苦労して巻いた。
 四角形のタバコ・ペーパーは、そんなに大きくはない。白いイモ虫のようなものが出来あがった。
 (欲張り過ぎだ。誰でも最初は加減がわからないものだが、さては手巻きタバコは初めてか・・・)
 苦笑いするしかなかった。
 それで気が解けて、
 「ここは、どこだい?」
 と尋ねることができた。現在地がわからないと、地図でメトロの駅に辿り着けない。
 「えっ? なんだって?」
 「このあたりの地名は、なんだい?」
 「わかんねえよ」
 驚いた。みすぼらしい格好で、旅行者には見えなかった。
 それで、この青年は移住して間もなくて、私同様地理に暗いのかもしれないと考えた。私とて過日、観光先の京都で道を尋ねられたことがあった。
 ─── 人選を間違ったかもしれない・・・。
 パリの市街地図を見せても、どこなのか見当もつかないといった風だった。
 「おれブルガリアから来たんだよ」
 青年は言った。国境の消えたEUを実感した瞬間だった。移住者のようだった。
 まるでロマ(ジプシー)のように、彼の眉はつながっていた。
 今ではロマとかティガンとか呼ばれるが、以前はジプシーと称された人たちの分布は欧州に広い。

 彼は、人の一群が通りかかると、まるで食ってかかるように、ここはどこなのか尋ねてくれた。「この人にタバコをもらったんだ」とも言っていた。
 他人事のように一場を眺めながら、タバコの効果は意外と大きいものだなと思った。
 だが、ここはどこ?というのも奇妙な質問だ。結局要領を得ないまま、青年は私に詫びを言った。
 私がいると大抵は場が英語になったが、あるいは通りすがりのそのグループには、英語が通用しなかったのかもしれない。

 ここが一体どこなのか、私にはわからない。
 自分が全体何者なのか、私にはわからない。旅行鞄の中には菊花紋の赤いパスポートが入っていたが、その写真が誰なのか忘れた。
 ひどい幻覚があって、テレビやラジオがこぞって自分に語りかけているように感じた。このままでは気が狂うと思い、言葉のわからない国に行こうと思った。なまじっかコトバの分かる英語圏を除外すると、欧州に決まった。気が狂う? ─── 狂っていないつもりなのか ───
 生きるために、二つ条件があった。少なくとも犯罪を犯さないこと。自我が降伏し、意識の窓口係りをやめてしまわないこと。
 (おまえが代わりにこの中年男をやってくれよ)
 私はよくネズミ(アニマ)に言ったものだった。理由はわからないが、返答は決してなかった。
 ネズミはフレンドリーだったが、言えば古い悪友のような役柄を演じていた。
 ─── 悪魔だって人に取りつくときにはフレンドリーなものだろう。
 私はネズミを信じたりはしなかった。

                  ☆

 So what?
 マイルス・デイビスの曲にもあるが、「だから何なんだ」という言葉で己を励ました。
 あるいはアメリカ製の軍隊映画で知った、Say Geronimo!。それにSay anarchyなど自分でアレンジして使った。

 アントナン・アルトーは、片手に靴を持ったまま、精神病院のベッドの脇で死んでいたという。
 ─── そして詩とは、それが本物ならば血に値すると、アルトーは「ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト」で書いた。

 自らの血をもって詩を書く者、己に課した使命を果たそうとする者が歴史上にいて、中国唐代なら李賀がいる。彼は下層民の暮らしを思いやり、時の政治に義憤を抱く正義漢だった。先に紹介したような恋愛詩ばかり書いていたわけではない。

 ─── 恨血千年土中碧 (恨みの血は土の中で千年を経て碧玉に変わる)

 罪無く刑死した者の血が土中に染み込み、三年後に碧玉に変わったという故事に因む句だ。
 さすがに李賀は、三年ではなく千年後と脚色している。
 血の赤い液体が凝固して黒に変色するのは日常親しく見るが、それが土中で緑の石に結晶するという想像力は、黒髪を緑色と見る中国人ならではのものかもしれない。

 李賀は唐代にあって憂国の士だったが、二十世紀のアルトーは西洋文明を憂えていた。ジェロニモは二十世紀初頭まで生きたが、アルトーはその少しあとメキシコに渡って呪術の修行をした。そうした者たちへの遥かな憧れが、私にはあった。

scene 11 ケバブ食堂

 腹が減っていた。
 私は少し歩いてケバブの店に入り、セット・メニューを注文した。
 顔の長い店主が一人、客は私一人だった。
 格子縞の安っぽいビニール製テーブル・クロス、白塗装合板でできたカウンター、パリの下町食堂といった風情だ。
 私の刺し子半纏が珍しかったのか、三十代の店主が人懐っこいのか、テーブルまで来て「あなた、どこから来たんだい」と訊かれた。
 「チャイナ」
 「チャイナ?」
 「イエス」
 「本当にチャイナか?」
 「イェー」
 私は、こんなときには中国人と言うことにしていた。日本人と答えるのはあまり得策ではない。カモられる怖れがあるからだ。簡単な中国語なら知っていた。向こうは雰囲気で大体何人か見当をつけるだろうが、それでも迷わせる材料くらいにはなると考えていた。

 実際、ある街で集団スリに出遭ったことがあった。一人の男が私にぶつかりそうになったのを皮切りに、女も含めて何人もが私めがけてふらふらと近づいて来て、接触できずに通り過ぎた。ローラー・ブレードの者も含めて、目まぐるしく10人弱と交錯しただろうか。話に聞いていたので、これかと思い周囲に警戒円を設定した。多少なら、武術を知っていた。私はニヤニヤ笑いながらよけた。最後にとどめを刺す役が後ろから来たが、それも気配を察知してよけた。ぶつかられたら彼らの術中だ。
 避け切ったと思ったが、それでも人の多い広場に出てから、布製旅行鞄のジッパーを開けて財布を確認したものだった。

 つらつらと想い出を浮かべながら食事を済ませ、エスプレッソを飲んでいると、客が入り始めた。
 馴染み客だろうか、店主と色々話していたが、誰もオーダーはしなかった。フランス語の会話内容は、私にはわからなかった。

 しばらくすると老人が現れ、客らに伴われて私のテーブルに来た。
 老人は、カラテ・マスターだというふれ込みだった。
 キッパと呼ばれる頭に張り付けるような小さい帽子を被っていた。八十歳くらいだろうか。
 私の向こう正面に座り、見知らぬ異国人の私に何も話さず、終始にこやかにしていた。自分に絶対の自信を持っていなければできない態度だと思った。深く影を放つ実存に、私は打たれた。

 東洋人の私なら、カラテで話しができるとコーディネイトされたのかもしれない。顔に刻まれた皺がいい感じだった。
 私はごそごそと記念の品をデイバッグから取り出した。とある事情で、私は天皇行幸警備のバッジを幾つか持っていて、お土産用にユーゴスラビア軍払い下げのデイパッグに忍ばせていた。
 ジェスチャーで、あげるよと言った。

 「これは、なんだい?」

 傍らに立っていた店主が、丁寧に私に目配せしてから、ケースに入ったバッジを取りだして眺め、金色の菊花紋を指して尋ねた。
 チャイニーズだと言ったてまえ、あまり答えたくなかったが、何度も問われたので根負けして答えた。
 「日本のシンボルだ。ジャパニーズ・エンペラーのシンボルでもある」
 「日本? あなたは日本人なのかい?」
 「そうだ。その周りにあるのは桜だ。それも日本のシンボルのひとつだ」
 苦し紛れに私は余計なことまで喋っていた。
 そして、片眉を浮かせ、やっぱりねと言わんばかりの店主を見上げなければならなかった。
 客なのか店主の知り合いなのか不明な彼らも、メタル・バッジを興味深げにのぞき込んでいた。
 「見ての通りの老人だ。なにもお返しするものはないが・・・」店主は言った。
 「かまわない。取っておいてくれ」
 すると店主は、老人に身分証明書のようなものを出させ、私に見せた。
 「よく読んでくれよ。この人は本当にカラテ・マスターなんだ」
 確かにその書類には、太字でカラテ・マスターと書いてあったが、そのほかの文は読めなかった。書類は軍関係のものと察しられた。恐らくは軍で空手の教官でもしていたのだろう。

 老人も周りの人たちも、嬉しそうだった。
 店主が老人のジャケットにバッジをつけてやっていた。
 こうしたときにはテレてしまい、一緒に嬉しがれない。
 苦虫を噛み潰したような貌をして、私は店を出た。日本人の古風など、世界中で理解されまい。
 (よかったな、じいさん。あんたが嬉しけりゃ、おれも嬉しいぜ)
 私はふらふらと道を歩きながら、そんな風に思った。語ることのない過去であっても、語ることが出来るようになった過去でも、人は何がしか持ち運んでいる。
 それにしても、くだんの老人の眉も、ロマのように眉間がつながっていた。どこの国の軍人だったのだろう。もしかしてフランス外人部隊か、あるいはバルカン半島あたりのどこかなのか。



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