第十六章 神
スキゾフレニアの発症率は、世界中で安定して1パーセント程度だとされる。これは男女の出生比率にも似た神の配剤と同じ様に、私には見える。
なぜといって、人類史を考えた場合に、百人の村に一人の割合で、呪術医に成りうる素材が出現しないと、社会構成として困っただろう。
一方で、呪術者としての能力が遺伝することもまた知られている。
たとえば、小松和彦が主に四国でフィールドワークした呪術師譚にもそれは詳しい。
それはDNA的な文化的装置としての知恵だろう。全員が一から始めていたのでは、供給が覚束ないことが考えられる。
小松和彦は、詳細な観察により20世紀後半に急速に呪術は衰退したと述べたが、アメリカの呪術師ローリングサンダーの事例を勘案しても、おそらくそれは世界的な現象だったと思われる。ローリングサンダーの息子は、呪術師修行をやめ、アクセサリー販売をしているという話を聞いた。
それでも、もはや必要のなくなった神のデザインであるのに、忘れもののようにしてスキゾフレニアはなくならない。
私がここで神と呼ぶのは、神話のそれでも、半神半人となった宗教教祖などでもない。生命種の進化における自由選択とその保証のされ方、例えば一匹のアリに注がれた愛を、逆に手繰り寄せると降りてくる全体である。
いささか、言い直すべきだろう。神のデザインが時宜に応じてカリスマだったとして、彼らが歴史の表舞台から去ったとしても、内在する神性は消えたりしないし、ならばまた別の発現をするだろう。
古くは精神分裂症といわれた統合失調症という言葉が、私にはうまく意味が受け取れないので、この小説ではスキゾフレニアという語を用いた。精神分裂と言ったほうが私のイメージには近いのだが、さりとて精神分裂症という語が適切なのかといえば、それも違うと考える。
私のモデルは、先述したように元々精神は多くの人格あるいは性格を内包しているというものだ。そして、表層意識(主人格)と、それに近い場所にいる閾下意識(副人格)の補助によって意識が運用される。
未分化の精神にあっても、それは同様に運用されるのだが、曇りガラスのような隔てによって感知できないだけだ。しかし、スキゾフレニアによる脳の化学変化によりそれが洗われた場合には、明確に感知できる。それが、アニマ、アニムスといったアーキタイプとして顕現する。無論、それが副人格として明瞭に立ち現れなくとも、稼働しているし、それがねじれたら修復するために、ユング派精神医療はあるのだろう。
通りすがりに語れば、宗教で信じられている神は、この副人格が表に出てきた者である。縷々述べたように、それが預言をなす場合もあれば、時に下卑た人間性を垣間見せたりもする。よって人格神となるが、今ではニーチェによってそんな考えは捨て去られ、もっと抽象的なものになっているか、人によっては無になっているだろう。
☆
非常に興味深いことだが、ランボーのイリュミナシオンに、「断章」と題された自動筆記と思しきものがある。この文章の静かな強度は、最早ランボーがアニマを代弁しているのではなく、出て来ざるを得なくなった彼女自身がそこにいるように見える。
この世に、「前代未聞の豪奢」に包まれた、穏やかで美しい、ひとりの孤独な老人しかいなくなったなら、─── 私はあなたの前に跪くだろう。
私があなたの昔の思いのすべてを実現したなら、─── そしてまた私があなたをがんじがらめにできる女になったなら、─── 私はあなたの息の根を止めるだろう。
|
私には、これがランボーのアニマの直言でないと思うことができない。
全部を引用することはしないが、後の文章でランボーがこの最後通達におののいた様子が見て取れる。
ユング心理学では、審判者(セルフ)もアーキタイプのひとつであり、それはアニマとも通底するものとされる。だから、アニマの口を借りたセルフの影をランボーが見、恐れたとして自然だ。
引用文を私の表現で言い換えれば、「一体あなたは『私』を付き従わせたいのか? そうしないで、『私』があなたの思いをすべて実現してしまったなら、いつか成長した『私』が、あなたを破滅させる」と予告しているかのようだ。
アニマは独自の成長を遂げるし、セルフと通底したなら、覚束ない主人格を、容赦もなく処断するだろう。
そうした副人格の持つ多面性が、一般にユング心理学を難解にさせる要因のひとつだと思う。
日本の仏像には、両面スクナや十一面観音といった多くの顔を持つものが少なくないが、ユング的観点からすれば、極めて象徴的だ。
上図は、三面六臂の阿修羅だ。三つの顔は、阿修羅の性格を多面的に表している。六つの腕は、日本では最古のアニメーションが意図されている。上から下へ、下から上へこの像を見るとき、静止した像が動いているように見える。別にそれが千手観音であるなら、もっと詳細なアニメを見ることができるだろう。
アーキタイプが持つ多面的な貌。
あの日の私に突き付けられたアニマの、雷鳴のような一文。
「私はあなたを守ります。私を一人にしてしまったあなたのために」
それについて長年考えてきたが、今は今のアプローチで理解できる。
精神の中心としてのセルフは、巧妙な対置として、背中に羽根のついたアニマを私に降下させたのだろう。そしてアニマは、分離させられた者として、使命のあることを承知した。
逆にセルフは、鉈でも振るうように、処刑者として私の大切なものを次々と破壊した。精根傾けた「四国巡礼記」はパソコン事故で失った。念の為にとフロッピーディスクに保存したファイルも文字化けしてしまっていた。その文字化け自体が幻覚(セルフの仕業)だったと、濃厚に疑っている。
それも今では理解できる。
ひとつを失わなければ、他のひとつを得ることはできないと、ユングが語ったように。
岐路があって右の道を進んだのなら、選ばなかった左の道で出会ったはずの風景は、永久に消失する。
第十七章へ進む →→→
|