第十三章 ドレスデン警察の尋問
<scene 28 ドレスデン>
列車はザクセン州に入っていた。
車窓から見える森林地帯の風景は、息を飲むほど美しかった。木立に落ちた陽だまり、グリーンに光る若木の葉。ふいに小鹿でも現れそうだった。
しかし、フランスからドイツに入るとき、しきりに引き返すようネズミに忠告された。
ベルリンあたりで、(マズイことになるわよ)と最後通告があった。
(ちゃんちゃらおかしい)
のである。
今更この私に、これ以上まずいことなど何もないはずだった。もはや破れかぶれ、なのだった。
けれども終点のドレスデン駅に着くと、二人の刑事が待っており、警察手帳を見せられた。私には不正乗車の嫌疑がかけられていた。
有能にも列車内で私の不正を見破った古株の女性車掌と、オブザーバー的に賢そうな若い美人駅員も加わった。
「これがおかしいのよ」と私の切符を指さして、古株車掌は警察官に説明した。
「そこはね、ミスしたら付け足して書いていいことになっているんです」と私は弁明した。
刑事はオブザーバーに意見を求めたが、彼女は「その通りです」と肯定した。
「本当にか?」と刑事は、まじまじとオブザーバーを見た。
「ユーレイルパスのルールでは、そうなっています」と美人駅員。
古株車掌は、いかにも気に入らないといった風に横を向いた。
それで問題は解決したと思ったが、敏腕そうな刑事には何かひっかかるものがあったらしい。
「一緒に来てもらおうか」
手錠を掛けられ、古いランドローバーに乗せられた。
(これが話にきく旧東独警察か)
旧東独警察は、以前読んだマンガに出てきていた。
後部座席から装備を観察した。無線機が何事か喋っていたが、彼らは私の視線に感づいたのか、すぐにスイッチを切った。
(チッ、おもしろくない。しかし、なぜ気づいたのだろうか?)
しばらく車に揺られ、警察署というより、事務所のような場所に着いた。
通訳が来るというので、私たちは待った。
他に人影はなかった。むしろ他に人がいないことが奇妙だった。
(この人たちは、本当に警察の人だろうか)
そこは外観も中身も、どこかの会社事務所のようだったし、彼らは私服だった。
バッジを見せられた時は、しっかり確認したかったものだが、それも憚られて、どの組織かまではわからなかった。
始めは鉄道警察かと思ったが、出来事全体を考えると、それは違う。
どこからか電話が掛かって来て、他に移動することになった。
通訳がそちらに来るという話に変わった。
悠長なことをしていると、この街で宿を探す時間がなくなってしまう。気が焦った。
にしても、ランドローバーという車種には、違和感を抱かざるを得なかった。クルマに詳しいわけではないが、確か英国製の自動車だ。
次の場所は幾分か警察署らしいところで、私たちはオフィスに入った。
デスクやFAXも置いてあり、部屋は尋問用ではなかったろう。
パスポートをコピーされ、サインを書かされた。サインの一文字に至るまで、入念に綴りを確認された。
所持金もチェックされ「これで全部だな」と念押しされた。
50歳くらいの頭の禿げあがった現場叩き上げ風の男に、バッグの荷物を全部検査された。彼は使い捨ての薄いゴム手袋をはめた。なにかマズイものが出てきた時に、自分の指紋を付けないためだろう。
「この金はなんだ? 何に使う?」
旅行カバンの中から、現金10万円が入った紙封筒が新たに発見され、厳しい口調で尋問された。
絶句した。盗難被害で全滅しないように、現金を分散していたが、迂闊なことにすっかり仕舞い忘れてしまっていたのだ。
(わーお、ありがとう。忘れていたよ。助かった)
これでパリに帰ったら、モンマルトルで女が買えるかもしれない。
そんなことを、脳裏にうっすらと思った。
私の表情から、よこしまな目的に使うためのものではないことが察知されたのかもしれない。意外だったが、何も返答していないにも関わらず、その件で叱責されることはなかった。
叩き上げ風の男が、いかめしい顔をしながら、慣れた仕草でゴム手袋を段ボール箱に捨てた。その際のパチンという音がいかにも様になっており、映画のワンシーンのように見えた。しかも目の前にいるのはホンモノの旧東独警察だ。
カウンターの向こうに40絡みの男前が座り、私を尋問した。こちらも俳優にしてもよいほどキャラが立っていて、エリートに見えた。
「いいか、もうすぐ通訳が来る。なにか不服があるなら、その時は大使館に連絡してもらえ」
(あんな政府に相談とな?)
目の前の二人が、一斉に噴き出して笑った。無論、私は心の中で思っただけだった。
(もしかして、この人たちは・・・)
私がそう思考すると、二人は急に笑うのをやめて、押し黙った。
その沈黙の間に、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
何度も電話のやり取りがあった。
オフィスにある備品などは観察しつくした。ここは警察署では決してない。
エリートの表情から、なにか問題が発生しているらしいことが覗えた。怒って文句をつけているようにも見えた。ドイツ語なので、その内容は私には一切わからなかった。
「通訳は来ない。電話で話す」
そういって受話器を渡された。
「こんにちは。アヤです」
「アヤさん、ですか?」
二の句が継げなかった。電話の向こうでムフフと笑うのが聞こえた。ひとが困っているのに、呆れた女だ。
電話を交えての三者会談になった。埒が明かなかったことは言うまでもない。
「だから、ユーレイル・パスは、書き損じたら枠を継ぎ足して使用していいことになっているんです。ちゃんと説明してくれていますか」
「それはさっきから何度も説明しています。それに、私はユーレイル・パスなんか使ったことないんです」
最初からプロの通訳でないことは分かっていた。そして、どうやら、旅行会社関係の者でもないらしいことがわかった。ここら辺りに駐在しているサラリーマンの妻が、パートタイムで請け負っているのだろうか。
長い時間を空費したあと、私は「この人の助けは要りません」とエリートに告げた。
エリートも納得せざるを得なかったようで、「アヤさん」は三者会談から外された。
それにしても、切符のルールはわかっているはずなのに、ドレスデン警察は一体何に引っかかっているのだろう。
「いいか? おまえはこの切符、不正使用しただろ。ドイツ・バーンに運賃を払え」
エリートは怖い顔で凄んだ。ハンサムで、私生活では甘い顔も見せるのだろうが、警官として威嚇する術は心得ているようだった。
私が何も返答しなかったので、このセリフが何度か繰り返された。
支払いたくなかった。
三度目くらいに、こちらの考えがまとまった。
(いいだろう。正直なところ、確かに不正使用した。それは合計で7日間しか使えない切符だが、欄をつけたして、今日が8日目の使用となる。けれども今、ユーレイルのダイヤは乱れている。このテロ騒動だ。この切符は長距離移動専用に買ったものだが、ほんの短い距離で止められた日が何日分もあるんだぞ。これはユーレイルの約定不履行に当たるのではないか。それが不可抗力であったにせよ、しからば私の責任か? 私は旅行者として大損させられているんだぞ)
無論私にそんな口上が英語で喋れるわけもなかった。最早あまり不思議とも思えなかったが、私が心中で弁舌をふるっている間、彼らは一言も発しなかった。
そのあと、それ以上の尋問はされなかった。
「いいか、もうお前は釈放する。国に帰ったら、きちんとDBに運賃を送金しろ。これはおまえとDBとの問題だ。我々は関与しない」
(・・・国に帰ってからでいいわけね)
「いいか? これは言葉の問題なんだぞ。我々は言葉が通じないからな」
エリートは立ち上がった私を睨みあげた。
(あ、そう?)
私は笑ったりしなかった。そこは笑う場面ではなかったが、笑いそうにはなった。私はさも傷ついたようにすごすごと建物の外に出たが、彼らの見送りはなかった。
(それにしても、元々の嫌疑である切符不正使用に関与しない「我々」とは、一体何者なのだろう? そもそも、私は何を取り調べられていたのだろうか?)
もうその頃には、幻覚症状はきれいさっぱり治まっていた。出来事が幻覚である可能性は低い。超能力捜査官?インターポール? どう考えてみても始まらない。
釈放されて外に出た時には、陽もとっぷり落ちていた。
ドレスデン駅に着くと、今まさに最終列車が出ようとしているところだった。まごまごして乗り損ねたことに気づき、私はキオスクでワインを買った。もうホテルなど探せるわけもなく、野宿必定だったからだ。
5月といえどもドイツ内陸部は寒く、夜中歩き回って寒気をしのいだ覚えがある。
運よくバス・ステーションを発見し、朝一番のフランクフルト行きに乗り込んだ。
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