第十章 マジカル・ミステリー・ツアー
<scene 20 名も知らぬ街で>
ナントでも宿がなく野宿したが、翌日には少し南下して、また名も知らぬ駅で降りた。
今となっては、その理由も思い出せない。
そこでは宿がなかったというより、地形が入り組んでいて町の中心が見つからなかった。
かなりさ迷ったが、埒があかなかったので、あきらめて駅で寝ることにした。
戻ってみると、まだ陽があったのに、早々と駅舎は閉まっていた。
うろつくと、長々と続く生垣に通り道のような切れ目があったので、そこからホームに侵入した。
よもや人がいるとは思わなかったが、シェルブールで出会った男とそっくりに顔の崩れた男に声を掛けられた。
ジャックダニエルかなにかのボトルを片手に持っていた。
(こんなやつと一緒に寝るのは御免だな)
「ヘーイ。・・・で会ったろ。なあ、おい」
などと言っているような気がしたが、相変わらずこの男の英語は聞き取れなかった。
無視した。
尿意があり、辺りを見回して、誰にも見られないであろう屋根と囲いのある場所で長々と放尿した。ここなら寝られるかとも思えたので迷ったが、ずっと我慢していた。フランスでは、なかなか小便をするところがない。
暫くして、酔っ払い男が私の小便を見つけたのか「シット!」と声を荒げるのが聞こえた。彼もそこで寝るつもりだったのかもしれない。
(仕方がないだろう? 謝る。けどな、出るもんは出るぜ)
私としてもそこで寝るわけにもいかなくなったので、駅舎まで行ってみた。しかし、施錠されており中に入ることはできなかった。
どうしたものかとホームで佇んでいると、プロレスラーのような体躯の男がズンズン歩いてきた。
頭の禿げあがった中年で、もろにフランス風の顔だった。チェックのシャツにジーンズのオーバーオール、若干田舎風だが、小ざっぱりした中流の身なりだった。
レスラー男は興奮状態で、怒ったようにブツブツと独り言を言いながら、私の前を通り過ぎて行った。小便たれの私に何か文句があるわけではないらしく、胸をなでおろした。
ホームが長いので目視できなかったが、彼が何事か大声で叫んだ刹那、「バァーン」と音がするのが聴こえた。
そしてレスラー男は、先程と同じように、私には目もくれずに帰って行った。
(はてな?)
まさかとは思ったが、駅舎に行くと、扉が開錠されていた。
しかも、先ほど見たステンレス製のドアではなく、古ぼけたペンキ塗りの木戸に変わっていた。メインのデッドボルト錠も、下部にあるストッパー錠も外れていた。
少しの間、目の前の事態について考えを巡らせたが、思い切って中に入ることにした。
構造上そこはホームに通じる出口だったので、まずフロントドアを確認しに行った。到着時に見たメタリック・シルバーの扉だった。大型の把手を押すとラッチボルト(ドアを仮締めする爪)が外れる構造で、妙にメカニカルで頑丈そうな造りが駅舎全体の雰囲気から浮いていた。そして勿論、しっかり施錠されていた。
(そうだよな?)
私はもう一度出口を見に行った。その木製のドアは、ペンキの剥げ具合から、何度も塗り重ねられている事が覗えた。駅舎の内側から見ると、数十年前の物の様な懐かしい汚しが入っていた。
私は奇妙に静謐な空気に浸されていた。
駅周辺には何も建物がないので、とんでもなく静かだ。
試みに、駅舎に付設された待ち合い室に入ると、この駅に到着した時に見たのと同じ木製のベンチがあって、少なくとも外で寝るよりは快適そうだった。
(ここで寝るかな)
用心のため周囲を観察しようとそこから出て、ふとスナック菓子の自販機の前に立った。つい先刻、念力で菓子を落とそうと試みて失敗していたやつだ。
突然、名状しがたい悲しみがこみ上げてきた。
不思議などと呼ぶにはかなり度を越えていた。状況に耐えられなかった。私は歩き出た。
(あいつはモンスターなのか?)
私の欧州旅行は、図らずもそういうトライブ(魔族)との邂逅によって彩られていた。
(あんたもあれくらいになんなさいよ、駆け出しさん)ネズミが言った。
そう言われても、途方に暮れるというものだ。
(ムリだ。おれには雨降らし程度しかできない。恐らく、人によって領分が違う。どうしておれには、こんな役立たずの能力しか与えられなかったんだ・・・)
しばしば私は自分の能力を不満に思ったものだった。
どうせ与えられるなら、たとえばヒーラーの能力の方がよかった。
昔ネットでその種の人とやり取りしたことがあったので、実在することは知っていた。それなら人の役に立つことができるからいいのに。
そういえば、この旅行を始める前、チケットを手配していた時、ネズミに宣告されていたことがあった。
(この旅は、映画の「マトリックス」みたいなものになるのかい?)
(そんなの目じゃないわ。もっと、もっとよ・・・)
そんなわけで、旅の主題曲はビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」となり、常に私の脳裏で放送されていた。
そんなことを思いながら、ずんずん坂道を歩いていると、通りをいく車が速度を落とし、中から声を掛けられた。
"Hey you, wait, please"
メガネをかけたインテリ風の身なりのいい美人が、洒落た小型車の窓からこちらを見ていた。モロに私のタイプだった。
困っている旅行者を助けたいと思っている奇特な人だったのかもしれないが、私は無視した。
相変わらず心が、冷蔵庫の氷のように冷えていた。
二度ほど呼び止められたが、私の目を見て「もー」という反応をし、そして諦めたようだった。
そのまま郊外の坂を登り、山の中まで入っていって、そこで死ぬことにした。そこには、ゴッホが描いたような荒れ野が広がっていた。
(おれはフランスに客死する)
凍死すべき情況だった。
(その割には革ジャンなんか着込んじゃってさあ、防寒用のアルミ蒸着シートで丸まってンじゃない? haha) ネズミが言った。
(うるせい。寒いのはきらいだ)
夜中、荒れ野まで車が来て、長い間私をライトで照らした。
(なんだ? 自殺防止委員会の監視か? それともトライブの見守りボランティアか)
起きている事象が、ことごとく私には理解できなかった。その夜も、寝たのかどうかわからなかった。
(なかなか、人間死なないものだな)
酒を飲んで寝ると、扇風機の風でも死んでしまうという事例に期待したのだが、そんな消極的な方法は全くうまくはいかなかった。
というより、情況に絶望していただけで、真面目に死ぬ気なんぞはなかっただろう。「私」自身は死にたくても、おそらくアニマとかセルフとか、臓器とか、そういったひと達の同意がなければ、自殺などできないものと思う。
翌朝、疲れの溜まった足を引きずって、なんとか駅舎の前まで来ると、前方から「パン」と乾いた爆発音がした。
見ると、駅舎内で若い女性旅客が、音の鳴った辺りを凝視したまま手で口を押えていた。
私は何が起きたのか確認すべく駅舎内に入ろうとしたが、ふと(マズイな。あれ、原因おれだな)という強い感じがした。
踵を返した。なにも逃げることはなかっただろうが、そういう現象に慣れていなかった。
レスラー男の件だが、翌日の駅舎出口の扉は合金製のものに立ち戻っていた。幻覚を見ていたのではないか?という疑いが、濃厚にある。
デイドリームなら慣れていた。例えば日本でこんなことがあった。
全面禁煙になったはずの鉄道駅のホームを咥えタバコで歩いていたが、突如としてかなり昔の風景に替わった。流石に全空間をレンダリングするのは脳にも負荷が大きいのか、ザラついた粒子のような景色だった。
私は幻覚製の古ぼけた灰皿にタバコを押し付けて火を消し、しかも、虚無空間のようなその灰皿の穴に吸い殻を落とした。
その時はさすがに、事が起きている最中から、それが幻覚だとわかっていたので、タバコの吸い殻の行方を訝しんだものだった。
けれども、そんな風に周囲がイリュージョンに変わったとしても、私自身は、時空間上「そこ」に存在していたはずなのだ。
それとは白昼夢の種類が違う。
もしあれが幻覚ならば、物理的に錠が掛けられていたはずの駅舎に入っていった時、現実の肉体は一体どこで、その白昼夢を見ていたのか。
ひとつの世界を説明しおおせた者のみが、それを支配できるのだとすれば、考えざるを得なかった。
さて、ボルドーを目指した小旅行は、精神状態が悪かったせいで芳しいものにはならなかった。
ボルドーから、ロートレックの生誕地であるトゥールーズ、さらに足を延ばして観光地のニースまでといったコースも思い浮かべていたが、それどころではなかった。
ボルドーで昼食のメニューを食べ(これはうまかった)、免税店で少し高い赤ワインを買っただけでパリに帰ることにした。
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